食べ物の好き嫌いを
わかってくれる方がいるのは
まるで、「それでもいいよ」と
やさしさが流れてくるみたいで
うれしいです。
わたしは、高校のころから大学2年くらいまで
摂食障害のように「食べること」を
極端に「こわがっていた」時期がありました。
朝、昼、夜と、ほとんど
ダイエットと称して
たべないようにしていたのに
いきなり、夜中に(こっそりと)
たくさん食べてしまうのです・・・。
それも、普段「食べないように心がけている」
菓子パンや、お菓子(オーストラリアのお菓子TimTamとか美味しいもの)でした。
『いつになったら、やめられるのだろう』と
毎日のように日記に思いをつづっていました。
この行動も、たしか、失恋から
「心がバラバラになりそう」な
キモチを誰にもいえなくて
言っても理解してもらえなくて
反動がでていたのかもしれません。
この「苦しいのにやめられない」
「くりかえしている」
わたしの行動は
call for love [愛を求めるさけび]でした。
うまく表現できないのですが、
いまは、その「そうであったこと」も
ただ、「わかってほしかったのだなぁ」と
かんじとってゆくと
「ほんとうのことは、なにか」が
うかびあがってきて
うっすらと、「叫び」が
消えてゆくものです。
(それでもまだ、「これがいい」「これがすき」とおもうものを
だせなくて、「あはは〜」と、おもうこともあります。)
「ゆるし」は
それがなされた(ひどいことをしてしまった)というのは
本当には存在していないです、
と言い切るところで、それは
鮮やかにかんじます。
清らかな、小川のように。
そうとは、言い切れない、
そうは
思い切れないときは
「置いてけぼりにしたおもい」が
call for loveのなかにある
loveが
「ここにいるよ」と
光を放っていてくれているように
わたしは思います。
手づくりフィナンシェをパティシエの女の子からいただきました。(^∇^)美味しい。・°°・(>_<)・°°・。 #フィナンシェ#手づくり
CourseのWorkbookにある「ゆるしとは何ですか?」を
転載します。
ゆるしとは何ですか?
1、ゆるしとは、兄弟があなたに対してしたと思っていたことは、じつは起こっていなかったと認めることです。ゆるしは、罪を大目にみて、その罪を実在にすることではありません。罪は存在しなかったとみなすのです。そして、その見方の中では、あなたの罪のすべてがゆるされます。罪とは、神の子についての間違った考えにすぎないのではありませんか? ゆるしは、罪とは誤りであると見るだけであり、したがって罪を手放します。あなたは、手放した場所に自由を得ます。それが神の意志です。
2、ゆるそうとしない思いとは、判断を下し、その判断が真実ではないにもかかわらず疑ってみようとはしない思いのことです。その心は閉ざされており、解放されることはありません。その思いは投影を守ろうとして、束縛するための鎖をさらに締めつけるので、歪められたものはさらに覆い隠され、より不明瞭になり、容易に疑うことはできなくなり、理性からさらに遠ざけられてしまいます。確立した投影と、その思いが望ましい目標として選んだ目的の間に介入できるものなどあるでしょうか?
3、ゆるそうとしない思いは数々のことをおこないます。狂乱状態で行動し、自分の選択した道を邪魔しているとみなすものを曲解し、打ち負かしつつ、自らの目標を追い求めます。ねじ曲げることは、その思いの目的であり、同時にその目的を達成するための手段です。何であれ自らの見解に矛盾する姿勢をとるように見えるものに対して、よく考えもせず、実在するものを打ち砕こうと狂暴な企てに着手します。
4、それに反してゆるしは、じっと静かにしたまま何もしません。真実が示すいかなる様相にも逆らうことはなく、真実をねじ曲げて自分の好きな姿にしようとすることもありません。ただ見つめ、待ち、判断を下しません。ゆるそうとしない人は、判断せずにはいられません。ゆるせないことを正当化しなければならないからです。しかし、自分自身をゆるしたいと思う人は、真実をありのままに歓迎することを学ばなければなりません。
5、したがって、何もせずに、あなたのガイドであり、救い主であり、保護者であり、確固とした望みをもち、あなたが最終的には成功すると確信している存在、ホーリースピリットを通して、ゆるしに何をしたらよいかを教えてもらいなさい。ホーリースピリットはすでにあなたをゆるしています。そうすることが、神から与えられたホーリースピリットの役割だからです。今こそ、あなたはホーリースピリットの役割を分かち合い、ホーリースピリットが救った人たちをゆるさなければなりません。ホーリースピリットは、その人たちを罪なき者と見て、神の子として尊重しています。
(ガイドブック9 祈りある生き方)