読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

あること。いまを、いきること。ー another room

『一緒にいてくれてありがとう。』豊かで恵みあふれた世界をみるために、A Course in Miracles(奇跡のコース)を通したクラス、 セッションにて うちなる教師(医師)を育てています。

役職をやめてから、おもいだしたこと。神業を目撃すること。

都会の中にある木々も

夏を満喫しているようでした。

風もふんわりしていて。

頑にとざしていたものを

和らげてくれるようです。

セミの鳴く声が時間帯によって

違うのは、なんだろう・・・。

 

https://www.instagram.com/p/BI7F8nrjy9l/

松の木。涼しくて、やわらかな風が 吹いてました( ´ ▽ ` )ノ#松の木

 

 

 

わたしは仕事の現場にのこったときに

おきたことは

「劇的に、売上がさがる」という

『だめだ』という

おもいを、責めることを

助長される出来事でした。

 

そのときには

『こんな良かったこともあるよ、あれも』と

言われても

そうは思い切れないほど

心の筋力が使えていませんでした。

 

あの人と、この人と、その人と

話を合わせることができても

不調和(のようにみえる出来事)がおきていました。

 

「じぶんが、ほんとうのじぶんの話と合わせられない」

そのことによって起きている

「わたしの内面の」不調和に

気づけませんでした。

 

もっと、気楽に

「助けてほしい」と

言えれば良かったのですが

じぶんで、じぶんに見えない鎖を

足につけていたかのように

表現しても「じぶんの責任だから」と

それも、どこかで「まわりや、じぶんを責めながら」

いたかもしれません。

 

 

もとめていたものは、

最初から最後まで

すばらしい家でも

数でも

成果でもなくて

家族のように

仲間のように

こころから

喜びあえる存在でした。

 

どんな自分とも

ともにあれるように

深く、経験したかったことも

あったのだとおもいます。

 

じぶん以上に

じぶんのことを

おもってくれる存在。

(Courseでは、それを「聖霊」とよんでいます。

内なる教師、とも言われています。

わたしの感じるところでは

内なるものにつつまれたなら

目の前にいる方も、

助けてくれる、「聖霊」です。)

 

 

いまでも、

職業も

年代も

性別も

関係なく

「愛」を

「しなやかな優しさ」の中を

いきている人と

「ほんとうの、わたし」を

経験することをしています。

知るため、知識をふやすため、ではなく。:)

 

 

そして、今年に入るまえに

「わたしがなんとかする」という

決意をやめました。

その瞬間、悔しいきもちや

なんともいえない感じや

「やっぱり、責任感がなかったんだね」と

言われることもありましたが

そのあとに

起こっている展開は

わたしの想像以上のものです。

 

 

 

 

余談ですが、

わたしはレッスンのひとつに

できなくてもいい、

ということを

トライしています。

 

「できる」ひとが

喜ばれる(愛される)という

思い込みをつくってきたなかで、

それを取り消すことをしています。

わたしには、慣れないことです。

頑張らないこと

やりすぎないこと

じぶんでやらないこと、

どれも、そうではないと、「ここには、いられない」と

おもってきたことです。

 

 

また、このことをレッスンしていけば

いくほど

どれほどまでに

心の力をみくびって、

まわりを

「できないひと」にさせてきたか

それを思い知ったときに

じぶんが情けなく感じて

泣けました。

(「そんなことはない、

その奥にある光をわたしはみているよ」と、

聖霊は、いってくれます。

悲しみに共感せず、その奥にあるものだけをみてくれます。)

 

 

 

 

「できないわたし」も

「できるわたし」も

すべて

愛の道具として

つかってもらえる。

「できなくてもいいよ」という

そのやさしさは

わたしの真面目さを

やわらかくしてくれました。

 

 

穏やかなきもちで

本当のわたしとともに

「使ってもらう」

そのようになりました。

 

それは

「見守っている存在」への

感謝の祈りを

より深めてゆけています。

(虚しさが溢れるときは、

かならず、じぶんを

過去や未来、分離をつかって比較して

本当のもの(実在)を否定しています。)

 

  

奇跡は、

意識的に行われるものではありません。

「これが起こったら、奇跡」

「そのために、お願いしている」

それは、ちがうのだとおもいます。

 

起きたことそのものに

解釈をつけているのは

個人の「わたし」です。

 

その解釈は、間違っています。

 

 

 

神業を目撃するものです。

 

あらゆるエゴの思いは、

過ちであり、自分自身に対しての

思い違いであると思い出すとき、

その過ちは、他のあらゆる幻想とともに

彼方に消えてゆきます。

今や心は、その過ちを実在するものとして

覚えておこうとする意志をすてたからです。

代わりに、意志を、本当の自分を思い出すためにつかうと

決めたからです。

(Workbook Lesson 221 解説)

 

 

大事なことを行うために

目の前の人の、世界の、

絶対の光をみるために

奥にある心のかろやかさとともに

きょうも、丁寧にいきようとおもいます。 :)