どうしても、
感じても、言えないことが
あった。
それを、ずっと抱えたままでいると
表現しようというキモチが
しぼんでいった。
誘われてみにいった映画は
「ここにも、うつくしさは、ある」と
みせてくれて、わたしの否定したいおもいは
ひかりに包み込まれてしまった。
わたしにとって
書くことは、すなわち「つながること」で
感じたことも
奥をみて
ことばをつかってみたいとおもった。
そして、過去のわたしに、伝えたいことは
「わたしは、すきなものを、すきといっていい」
ということ。
じぶんのよろこびを、
おさえこまなくていい。
かくさなくていい。
この動画をみて、
『だれにもみられていないようなきもちがあった』
『なにかを届けられるものがあるんだ』という
監督のことばを聴いたら
うちがわに、ぎゅっと
こもるような感じがあった。
ほかの、動画も、みてしまったけれど
監督が話すときに、ゆさぶられることがあった。
泣いてしまいそうな、ゆらぎ。
映画「君の名は。」をみて、
都会も田舎も
ひかっていていいとおもった。
どちらも、ひかっている。
みている世界にある
うつくしさを
全肯定されていて
その風景をみていたら
息がつまってしまった。
都会の景色のうつくしさを感じたときに
わたしのなかの
「こんなところは醜い」というものを
「うつくしい」といわれたような
そんなキモチになった。
ずっと「いま」にいる
約束をしようとおもった。
それを感じたとき
この歳になって、ぬいぐるみから
「ぼくは、ちゃんと、みてるよ。きみが頑張ってきたことも
こころがけてきたことも、すべて、みてきたよ」
と語りかけられたような気がして
すごく、びっくりした。
ぬいぐるみの向こう側から、
わたしが、聖霊が
はなしかけてきたような
そんな感じだった。
だれも、みてはくれていないと
おもっていたから。
わたしは、だから、話しかけてきた
おもいを受け取りたいから
書こうとおもう。
あなた、という
ほんとうのわたし、のために。