『桜のいのち。庭のこころ』唯一無二のこころの一部。
「桜がみたいけれど
足がいたいし、いけない」
という93歳のおばあちゃんに
近くのお寺の桜を提案しました。
当日になって、「桜、みにいこう:)」
といったら
「怖くて(方言で疲れていて)いけないから、いっておいで」
と・・・!
無理に誘うのも違うし、
かといって・・・うーん。
体調のことばかりはなぁ。。
とおもいつつ
きもちの移り変わりを、そっと
みまもってみました。
「行けても、行けなくても
どちらでも」と
声がしたように
おもえたとき。
おばあちゃんから、彫刻家の伯父さんに
『すこし、桜をみてくるから、留守番しててやぁ』
と話しかける姿が。!
「あれ? いま、言ってのは
聴き間違い?」
と、すこし驚きましたが
おばあちゃんは外着に着替え、
杖をつきつつ
弟の運転する車にのり、五部咲きほどの桜を
みてきました。
桜の木も、お寺を囲う木々も
「よくきたね」と
かたってくれているようでした。^^
伯父さんに借りた本から・・・。
佐野 藤右衛門(さの とうえいもん)さんの
著作「桜のいのち、庭のこころ」 (1998/4/6 初版)
で、植木やさんのお仕事のことなど
かかれていました。
神社に銀杏があるのは
火事になったとき、
水を多く含んでいる銀杏が
とめてくれる、とか。
土が合わないと、植えたい木があっても
その土にあわずに枯れてしまう、こと。
植木のお仕事を見習いにきた方には
個性をみぬいて、個性をいかすこと。
なくなったおじいちゃんも、
まだ建築をしているお父さんも
「植物」や「植木」に対しての
見守りにかけることがおおくて
「なにが、そんなに惹かれるのだろう??」
とギモンにおもっていましたが
わたしも、木と人が同じ
とおもうから
人のその奥、木のその奥に
惹かれるのでしょう。
そして、わたしの頑固さや
人に頼れない、聴けない「弱さ」のあるところを
観抜いてくれている
伯父さんが、笑
「読んどけ」と本をとおして
「つなぎなおしてくれている」のだと
かんじます。タイミングという神業によって。
本の一部をかいておきます。
『桜をやりかけてわしの木や植物に対する考え方が変わりましたな。それまでは庭をつくろう、つくろうとしてたんですわ。つくるほうが先へ行ってしもうてね。やっぱりそれでは考えが浅いですわ。急ぐというわけじゃないんですが、とにかくつくろうということだけが先走って考えるんですわ。
生きものというか植物を相手にしているという、そこまでの考えはなかったですな。ただ、季節を見る、時期を見る、これは今いいとか、あかんとかいうのは、徐々に覚えていったもんやから、それはそれでいいんですけど、木のいのちとか、木の生かし方を自覚して考えられるようになったのは桜をはじめてからでしたな。
というのは、何でもないものを生かすことを考えるしね。若いときはできた木を使うて、自分で形をつくっていくんですわ。できたものを持っていって、いかにそれを組み合わせたらいいかと。ところが桜をはじめてからは、そこらにあるものを何でもええ、持っていって、最終的にうまいこと合わしたらええわ、というやり方に変わってきています。そういう意味でもわしが桜をやったことは大きかったですな』
きょうも、お読みいただき、ありがとうございます。:)
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