「受け取るという決断は、受け入れるという決断」
「受け取るという決断は、受け入れるという決断」
兄弟、つまり目の前の人の無限性を
裁くのと同じように自分の無限性を裁き、
目の前の人の無限性を受け入れるのと
同じように自分の無限性を受け入れる。
時間の中では、与えることが先になるが
与えることと受け取ることを分離できない永遠の中においては、これらは同時に起こる。
この2つは同じだとわたしが学んだとき、時間の必要はなくなる。
毎分、毎秒、わたしに自分自身を救う機会が与えられている。
平安のなかにとどまろうと決断するときに、わたしはそこにとどまる。
だが、アトーメント(ゆるし)を受け入れなければ、
わたしは平安の中にとどまれない。
自分自身を愛のない存在だと観ることをえらぶなら
わたしは幸せにはならない。
この力不足という感覚から逃れるために
わたしは自我に頼ろうとするのだが
その感覚は自我が自分で生み出したもの。
自我は真の質問がなにかをしらない。
聖霊はわたしがもっている信念のひとつひとつを
それがどこからきているのか、という観点から判断する。
それが神からのものであれば、
聖霊はそれが真実であると知る。
あなたが自分の価値に疑いを抱くときにはいつでも
次の言葉をいいなさい。
わたしがいなければ、神、世界そのものが、不完全である。
この観点から、自分がなにを望むのかを選びなさい。
神に捧げたいと思えないものは、何も受け入れてはならない。
それ以外には、あなたは何も望んでいない。
あなたという一部を神にかえしなさい。
…
最初はじぶんのきもち。
だんだんと、じぶんのきもちがおさまっていくと、
全体のきもちを
かんじとれてくる。
だから、まず、じぶんのきもちのすべてを
つかっていく。
ゆるし、とは、オッケーをだすこと。肯定する力。
素直にこう感じているなぁ、と受け入れる。
それは違うんじゃないかなぁ、とおもってみる。
損してもいい、
めんどくさい、とおもってもいい。
そんな風に、おもってる。