書くことは、表現することは、セラピー。
ばななさんのnoteを、一年ほど購読しています。きょうは、書くことは、じぶんにとってのセラピー、という表現に、うなづいてしまいました。
わたしは、書きたいことがないので、いつも
わたしと、読む方にとって、書くことを頂きたいです…と祈りつつ、そこで、きたものを(きていたものを)書いています。
じぶんが学ぶとき、全ての方と同時に学んでいる。だから、じぶんの人生のために、それ以上に、じぶんのまわりの方のために、じぶんが、学び、使い、うけとっていく…そのような、
感覚を、わたしは、コースや、瞑想、お祈りを教えてくださった方々から、いただいている感じがします。
過去に、かかわった方々にも、わたしの心が変わるなら、その方々との関係性も、かわるから…。それを、どんな風に、などと、捉えることはできないでしょう。
ですが、いつも、会うときは
過去のその方では、ないのが感じられて嬉しいです。はじめまして、こんにちは、とおもえることが…。
一番身近な蓮さんに、そのことを、ふと感じます。
遊ぶ施設でも、わたしの見えないところまで、一人で遊びに行き、まわりの方と笑顔をわかちあい、
楽しそうでした。
それを、遠くからみたときに
あぁ、わたしは、ひとりぼっちになることが、寂しかったのだなとも、感じました。
ですが、つねに、一人ではなかったことにも
同時に、気づかされたのです。
笑顔が連鎖してゆくこと。
たったひとつの愛という、奇跡を、全体性を
体験しつづけること。
わたしの、つくった寂しさを
奇跡の道具に、つかってくれて、
神さまありがとう。