いまが ぐっと広まって深まってゆくように。
いまだけ だから…とか、この時期だけね…とか、その言葉をきくことが多いなかで、その儚さを共有して、ひとつになること 、 またそこからうけとれるものがあります。
一つ一つ、ゆっくり感じ入るなら、それはグラデーションのあるものです。
それと同時に、感じることは この、いまに、蓮さんや赤ちゃんたちの内なる聖性をみるなら それは、いつも ずっと このうれしさや愛おしさは続くもの、という以上に 元々あるものだと気づけるように思います。
聖性、ひかり、眼差し、それをみるからこそ、時間も距離もこえて 心に響くものをうけとれる気がします。
だから、大きくなることへの儚さよりもずっと奥にあるひかりを つねに、与えてくれていることへの感謝の方が大きいかもしれません。
わたし自身では、みれないじぶんのことも、相手の素晴らしい聖性をみれているときに、自分もまた、その聖性に、戻っています。
相手に、環境に、その光がみえないときは、自分の中の光を観てあげてよいのだともおもいます。自分だけでみれないときは、一緒に。
そのためだけに、問題も、悲しみも、苦しみも、使われる…そんな風に奇跡をうけとるわたしたちを、神さまは、贈り物として、届けてくれています。
今日も、たくさんの贈り物を、ありがとう。